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〜(梶j大塚商会創業者、大塚 実会長 |
内容 | click | ||
01 | ★昨日までの専門家でなく、明日の専門家になる | ||
02 | ★保守料は金、パーチャーは銀 | ||
03 | ★情報伝達に組織はない | ||
04 | ★六守四攻 | ||
05 | ★「―だからしめた」と考える | ||
06 | ★困難を味方にする | ||
07 | ★人は長所を使え | ||
08 | ★人を使うというのは自尊心を使うこと | ||
09 | ★<新聞作戦>〜多店舗完全テリトリー制と新聞作戦の展開 | ||
10 | ★将棋の心と碁の心 | ||
11 | ★新任管理者の心得 |
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<昨日までの専門家、必ずしも明日の専門家ではない>。この言葉は、大塚実会長が好きな言葉のひとつ、日露戦争の203高地攻撃の折、児玉源太郎氏が長岡砲兵司令官に対して言った名言〜「昨日までの専門家であって、明日の専門家ではない」をヒントに応用したものである。ただし、決定的に違うのは、児玉氏のそれが自身の作戦の失敗を弁明する形で放った言葉であるのに対して、大塚会長のそれは全く逆で、周囲の反対を押してホテル事業という新規事業に乗り出し、成功させた時の教訓話としてこの言葉を使っていることである。 昭和61年1月、地方銀行協会の講演で、自らの体験談として大塚実会長は初めてこの言葉を引用している。 ●どの商売にも所謂プロの常識というものがあります。ずっとやってきたという常識。しかし、昨日までの専門家は必ずしも明日の専門家ではないと思うんです。昨日までは通じたかも知れない。しかし明日は違うんですね。往々にして専門家がいわゆる専門家馬鹿であったりしてアマチュアに負けている。新しい発想というのは、専門家からはなかなか出なくて、むしろ全然別の世界の人から出てくるものです。 私共が新築した熱海のリゾートホテル“ニューさがみや”は、オープンして1年目ですが、大成功といっていいんじゃないでしょうか。熱海の駅に降りてタクシーの運転手に「評判のいいホテルはどこか?」と聞いてみてください。10人中8人は“ニューさがみや”と言ってくれると思います。 「いまさら熱海にホテルなど」とか「素人がリゾートホテルなど成功する筈がない」と散々言われました。しかし、大成功でしたね。これは。 いまのリゾートホテルの風潮とはまったく別のやり方をした。そこにやる価値があると思ったからです。結局、玄人さんというのは、お客の立場から言えば素人なんです。銀行さんでもそうでしょう。お金を貸したり集めたりするのは玄人でしょうが、逆に、借りる立場としては素人なんです。 (中略) 熱海のホテルはこんなものという、いわゆるプロの常識を、素人の私が疑った時点から成功への道が開かれていたと思います。 大塚会長はこの言葉を、おそらくよほど気に入っていたのだろう。現にそれから5年後の平成4年、年頭のスローガンでもこの言葉をアレンジして引用している。それが、<昨日までの専門家でなく、明日の専門家になる>である。 もとより、大塚会長がこの言葉を引用する機会をじっと待ち構えていたわけでは決してあるまい。が、めぐり合わせというのは実に不思議な周期でやってくる。その前年の平成3年、コンピュータ業界はかってない未曾有の経験を味わうことになった。そして、明けて平成4年の新年、危機感迫る中で大塚会長は本業分野でこの言葉を使うことになる。 前年のバブル崩壊で不況ムードが一気に浸透し、市場の購買力が急速に低落しつつあるという厳しい環境下にあって、これに追い打ちをかけるように業界に一気に襲いかかろうとしていたのが、ダウンサイジングという名の超大型台風であった。それも、ネットワークとオープンシステムという暴風雨を伴って日本列島を直撃したのだから、とりわけメインフレームメーカーは一様に大打撃を受けた。 ダウンサイジングとは、大型汎用コンピュータ(メインフレーム)中心のネットワークを、UNIやパソコンといったより小型のコンピュータに置き換えるという思想である。コンピュータの世界ではこれまで大型機の端末にすぎなかったパソコンやワークステーションなどが、ローコスト・高性能化を武器に上位の大型機を食いつぶし、これにとって代わろうという一種の“下剋上現象”である。PC―LANで先行していた米国では、既に1989年(平成元年)頃からこの傾向がはっきりと見られるようになっていた。打ち続く経済不況で企業は、大型コンピュータを中心とする情報システム系への投資削減が至上命令となり、とりわけパソコンを中心としたネットワーク化への関心を急速に強めていった。やがてそれは“ホスト・コンピュータ無用論”へと発展するまでの大きなウェーブと化していったのである。帝王・IBMが赤字転落し、トップの交代が行なわれたのもこの平成3年である。 大塚会長は、こうした時代の急変化を予測して、平成3年7月1日付けで<OP・PC融合>。即ち、コンピュータ販売部門の融合という社史に残る組織大改革を行なったのである。それは、従来の製品中心型の販売組織(プロダクトアウト)から、ユーザー中心の販売組織(マーケットイン)への180度の転換を意味するものであった。しかし、この“ベルリンの壁”と称するところの「OP・PC融合」は、とりわけOP(オフィスプロセッサ)を販売の主力とし、<OPあっての大塚商会のコンピュータ部門>を自認していたTOPセールスにとって、事実上のPCにシフトしたこの組織改革は到底受けられ入れるものではなく、大きな反発を招くことになった。必然、社内の足並みは乱れ大混乱し、機能・定着するまでに多くの時間と日数を要したのである。 <昨日までの専門家でなく、明日の専門家になる>は、当時OP・PC融合の流れに乗れず、時流を見失っていたOPのトップセールスやマネージャーに対して送った強烈な、愛情溢れるメッセージでもある。 ●今までもコンピュータ業界は技術革新が甚だしかったが、今回のダウンサイジングの流れというのは、未だかって経験したことのない急激で強力なものです。あのIBMでさえもその対応を誤ったばかりに、赤字に転落し、目下再編を余儀なくされている、という恐るべき猛威を秘めています。 往々にして、経験豊富なプロの中のプロが、過去の栄光に自信を持っているがために、新知識の吸収と導入をためらい、抵抗している間に時代遅れとなり、その結果として新しい時代のプロとしては通用しなくなったということを見聞することが多い。 激流のような時の流れの急激な変化の中にあっては、僅か1歩の遅れが、やがて取り返しのつかない、大変なことになることが多い。我々はこのことを充分警戒する必要があります。 昨年の我が社は全体としてはよく時流に乗り、着実な前進を果たし、それによって社内外の評価も一段と高くなったと思っています。しかし、その反面、社内の一部が時流に乗り切れなかったという反省が残っており、しかも、そのことは現在もまだ全面的に解決済みというわけではないのです。それだけに、今年は社を挙げて積極的にダウンサイジングの流れに乗るべき努力精進を重ね、進んでその流れの先頭に立って邁進することを自らに課したい。 しかし、ダウンサイジングの流れに乗るということは決して容易なことではなく、多くの困難を伴うものであり、不退転の決意と並々ならぬ努力が必要であります。が、このことの解決なくして我が社の未来はないと考え、万難を排してもその実現を図るものです。 〜(平成4年「あゆみ新年号より要旨抜粋」) <昨日までの専門家、必ずしも明日の専門家ではない>と、<昨日までの専門家でなく、明日の専門家になる>。この二つの言葉の意味はほとんど同じである。しかし、前者のそれが、“プロの常識を疑え”というのがそもそもの根幹にあり、新しい発想というのは専門家からはなかなか出なくて、むしろ全然別の世界の人、つまり素人から出てくるものという、自らの成功体験から出た名言であるのに対して、<昨日までの専門家でなく、明日の専門家になる>は、プロたるもの、過去の実績や栄光にいつまでもしがみついていて、明日を見失ってはいけない!という社員に対する熱いメッセージとなっている点に大きな違いがある。仮に、後者のような状況のケースで<昨日までの専門家、必ずしも明日の専門家ではない>という言葉をそのまま使ったとすればどうだろう。現状を否定する文体となっていることからも明らかなように、これは断じて応援メッセージとは言いがたい。<…明日の専門家になる>だからこそ、「ならなければいけないんだ!」、「なってくれよ!」、そして「なれ!」という氏一流のメッセージがそこに込められているのだ。 インターネット全盛時代で、何が起こるか全く予測できない今日、<昨日までの専門家でなく、明日の専門家になる>の言葉はそのまま適用できる名言である。 |
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<保守料は金、パーチャーは銀>。この言葉は昭和61年、大塚会長がコンピュータ営業の幹部社員に向かって言った時の名セリフである。 ●営業の幹部社員というのはどうしても予算から頭が離れない。しかし、いくら予算を達成しても儲からない達成ではしょうがない。本当は何のためにやっているのか。というわけで、保守料をもう一度ここで見直そうと。そんなつもりで言ったわけです。〜大塚商会35年史より この場合の“保守料”とはパソコンの保守料であり、“パーチャー”とはリコーPPCのカウンター料金契約システム、即ち「パフォーマンスチャージ料金」のことを指している。会社にとって、パソコンの保守契約をより多く取るセールスは金メダルに相当する。また、PPCでゲットCV(パーチャー)をより多く獲得するセールスは銀メダルに相当するという、氏一流の社内的評価を明確に示したものである。金、銀があって銅がないのは、いかにPC保守料とパーチャーが利益貢献度という点で抜きん出ており、社にとって重要な存在(財源)であるかということを同時にまた示したものでもある。 保守料を金、パーチャーを銀としたのは、ひとつには粗利益率の違いである。保守料の場合は人件費を省けば基本的には必要部品だけでいいわけだから、粗利益率はパーチャー(P/C)よりも遥かに高い。故に、保守料は金ということになる。もうひとつは、P/Cはマシン販売時に自動的についてくる。が、この点PC保守料の場合は全くの別建ての契約となる。つまり、保守料という金脈を掘り出すも出さないのも全ては営業マンの腕次第ということになる。そうした営業マンの保守契約締結に至るまでの努力、それがまさしく「金」に値するということだ。 昭和61年、当時大塚商会のパソコンの保守料収入(売上)は全社のわずか2%程度でしかなかった。大塚商会のパソコンの売上高は、既に昭和59年においてオフコンを抜きシステム部門のトップの位置を占めており、また翌60年には、システム部門全体の売上高においてコピー部門のそれを抜いて主力商品としての座を確立している。ところが、パソコンの保守料収入は、パーチャー(P/C)が当時全体の15.7%を占めていたのに対してその何と8分の1程度でしかなかったのである。<サービスに優る商法なし>を看板とする大塚商会にとって、とりわけ大塚会長にとってはこの数字は何とも不満であった。 もっとも、基幹業務を担っているオフコンの場合は、ユーザーが保守料が払うのは当たり前という風潮があったことから、導入時には難なく保守契約を結ぶことができた。ところが、パソコンの場合はそもそもが個人用に開発された商品であり、しかも企業で導入される場合は情報系の部門で使われるケースが当時は大半であったことから、保守料に対する認識は当然のことながら薄い。従って、パソコンで保守料を取るという発想自体がそもそも当時の業界ではほとんどといっていいほどなかったわけで、2%という保守料構成比が低いうんぬんはもとより、これを見直そうという考え方そのものが当時としては極めて斬新であり、且つ特異な発想であったといえる。 大塚会長は、昭和61年に“大塚実経営語録”<困難を味方にする>を。そして、平成9年にはその続編として<続・困難を味方にする>を出版している。しかし、そのいずれもの語録にこの<保守料は金、パーチャーはを銀>は掲載されていない。これは、<保守料は金、パーチャーはを銀>は言ってみれば業界用語であり、広く一般社会には通用しない(理解できない)言葉であること。それと、社の政策を反映した言葉であって余りにも生々しい表現であることなどの理由から、おそらくそうしたことも配慮して載せなかったものと想像される。 が、個人的な嗜好で敢えてこの<保守料は金、パーチャーはを銀>をここで取り上げたのは、そうした実に単純明快な言葉や表現を通じて社の方針、政策を末端のセールスに迅速に浸透・定着させ、そして評価にも即反映させるという一連のメカニズムが、いかにも大塚商会らしく、大塚商法を端的に象徴しているように思えてならないからである。 それと、何よりも特筆に値するのは、この<保守料は金、パーチャーはを銀>の思想はその後、今日の大塚商会のサポート・サポートの金看板であるところの<トータルαサービス>を生み出すことになったという歴史的事実である。 <保守料は金、パーチャーはを銀>。その効果は早くも数字となって表れた。事実、同社の昭和62年以降のパソコンの保守契約件数は飛躍的なペースで増大を遂げたからである。しかし、それと併行して新たな問題点も派生してきた。それは保守継続率の低下である。<保守料は金、パーチャーはを銀>のもと、最初は保守契約を取ってくるのだが、それが2年、3年と継続しない、いわゆる保守停止ユーザー件数が目立って増加してきたのである。 <サービスに優る商法なし>を看板に掲げる大塚商会にとってこうしたことは、なんとも由々しき問題である。そして、このことを何よりも重要な深刻事態として受け止めた大塚会長は、平成元年、<六守四攻して浮利を追わず>の年度スローガンのもと、保守契約を継続させるためには他社にない魅力あるプラスαのサービスを提供し、ユーザー満足度を徹底的に高めなければならないとの思いを強くし、それを具体化するための立案部隊を発足させた。それが、「αサービスプロジェクト」である。 こうしたプロセスを経て<トータルαサービス>は完成した。インフォメーションサービスセンターの利用サービス、PCスクールの利用サービス、そしてソフト保守の3点をプラスαのサービスメニューとして盛り込み、これを会員向けの利用サービスシステムとして体系化し、スタート。平成2年4月のことだ。PCインフォメーションセンターの開設に併せて、まず中央と城南営業部でパイロット販売課としてスタートし、同年8月から全課一斉の展開となったのである。 保守料(ハード)はかくしてトータルαサービスのメニューの一角に組み込まれることになった。しかし、<保守料は金、パーチャーはを銀>は、大塚商会のコンピュータ事業を大きく変えたという点で、歴史的名言として後世に語り継がれることになろう。 |
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会社が大きくなってくると組織が肥大化し、現場の情報や現場の声はトップのところになかなか届かなくなるものだ。特に、会社にとって都合の良い情報は下から上へとすぐに伝わるが、その逆に会社にとって都合の悪い情報とか、あるいは社員の不満や要望などの声は往々にして途中で止まってしまいがちであり、トップまでにはストレートに伝わらない。中間の管理職の判断でこれは上に伝えようとか、これはストップしておこうということになるからである。 大塚商会の伝統的行事として、月に約1回の割りで行われる社員との会食「社長会食」がある。「社長会食」は、各部門のセールスを対象にして催される「社長賞会食」と、SEマネージャーや部次長クラスを対象にした「懇談会食」、さらには「営本会食」とに分類される。この内、もっとも重きを置いてるのが創業時からの伝統行事となっている「社長賞会食」である。 この「社長賞会食」は、各部門セールスの成績優秀者の中から幾つかの選考基準をもとにして、毎回十数名の参加資格者が選び出され会食に招待される仕組みになっている。セールスマンにとっては大変に名誉なことで、この「社長賞会食」に参加することを一つの目標として毎日の営業活動に励んでいるといっても過言ではない。 社員にとってはそうしたステータスとしての「社長賞会食」だが、会社にとっての最大の狙いは現場のセールスとのコミュニケーションを定期的に図ることにある。円卓のテーブルを囲んだ会食を通じて、日頃聞けない第一線のセールスマンの生の声、即ち、市場の動向や会社や組織に対する要望とか意見、あるいは不満などをダイレクトに聞き出す。勿論、単に話を聞くだけではない。これはと思う情報やヒントがあれば即それを経営の中に生かす。そこには組織の上下は全く存在しないのである。 このように、「社長賞会食」は現場の情報を何よりも重要視する大塚商会ならではの伝統的行事といえるわけで、<情報伝達に組織はない>を文字通り実践する場となっている。 大塚商会が、市場の変化に常に敏感で、どこよりも対応が速く、時代の変化を先取りする経営を実践してこれたのは、ひとつにはこうした大塚商会独自の文化、風土の中で醸成されてきたものといえる。 <情報伝達に組織はない>について、大塚会長は昭和61年1月の地方銀行協会の講演で以下のように語っている。 現場からの情報伝達について、普通会社には平社員、係長、課長、部長という、いわゆる正規のルートというものがあります。情報が課長を通り越したとか、部長を通り越したとか、そういうのは怪しからんというのはおかしいと思います。情報の伝達の仕方に組織を作ってはいけない。課長どまり部長どまりの情報の中にも貴重な情報なものが多い。会社にとって都合の悪い話、マイナスの情報、噂。これは通ってくることが少ない。バーなどで呑みながら耳に入ってくることが多い。 悪い話というのは貴重な情報で、それを逸早く解決することでより完全なものになる。悪い情報というのは、お金を払ってでも得る価値があると思います。悪い情報をどれだけ早く、それを解決できる人の耳に達するか、というスピードの差が企業の優劣を決めるのです。 オベンチャラを言われる情報、これもたまにはこちらも聞きたいから、まるっきりないのも困るけど(笑)。社長の悪口があったり、昇給の不満があったり、これは貴重な情報です。 上からの命令は組織でやらなければならないが、こういう下からの情報の伝達に限っては、あまり組織を尊重してはならないように思う。公然と非公然。この二通りがあっても良いと考えます。悪い情報がまるで入らなければ、社長は天上に祭り上げられ、つんぼ桟敷におかれてしまう。 悪い話は貴重な情報。情報の伝達は風通しを良くしておきたいですね。 (昭和61年1月、地方銀行協会講演より) |
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大塚商会といえば、その高成長振りからどうしても<攻撃的な会社>というイメージがつきまとうが、実際はそうではない。大塚会長は、「勝負は守りのエラーでつく」を持論としているように、攻撃よりもむしろ守備にウエートを置いた経営をこれまでに実践してきている。そして、それを象徴する基本戦略が<六守四攻>である。 この<六守四攻>は、多分にも大塚会長自身の戦争体験からくるものであり、いかに攻撃力が優れていても、攻撃力だけでは勝負に勝てないという教訓が経営哲学となって生かされている。 <六守四攻>について大塚会長は、自身の著書「困難を味方にする」(昭和61年発行)の中で、このように記している。 ●会社の中にも無駄はあります。その無駄を極力廃して行く。それからエラーをしないこと。エラーというのは非常に恐ろしい。勝負はエラーでつくと言ってもよいのではないでしょうか。 エラーが未然に防がれるような仕組み、無駄を廃せざるを得ないような仕組みをつくることに多大の力を注いできました。 V9を果たした川上監督時代の巨人軍。あの川上野球が私は好きです。面白みは無いかも知れないが実に手堅い野球をした。「勝つためにはエラーをしない」、これが川上さんの守りの野球の真随でした。その川上さんが言われた言葉に“どんな天才的なバッターでも四割は打てない”があります。つまり10打席のうち3本打てれば一流のバッターという事です。 けれど守備という点では訓練次第で97、8%まで引き上げることが可能だそうです。守備率を70%台で終わるか90%台にするかで勝負は決まってくる。打率はいくら3割だ3割5分だといってもヒットを2本や3本打ってもコンマ以下しか違ってこない。そんな確率の悪い方にウエイトをかけるよりは、守備率を高めて点を取られない方が遥かに効率が高い。ホームランを狙うよりバンドでもいいから確実に塁を進めさせる、これが前人未踏、よもやと思われた9連覇達成の秘訣だったと私は思います。 これが我々の場合、守るだけでは仕方がないんで、もちろん攻撃的な気持ちを持たなければなりません。しかし当社としては、それ以上にサービス関係者や女子の力を強めて守備に傾ける方向で努力してきました。会社としては守備に六の力、攻撃に四の力、つまり「六守四攻」を基本戦略の一つに置いているわけです。 守り方にもいろいろあります。交際費に頼らないで、圧倒的に迅速なサービスをするというのも大きな武器ですし、また他店舗完全デリトリー制もその戦略の一環です。 いま首都圏、近畿圏に膨大なお得意様を持っていますが、これらのお客さんに無理な買替えを強いない、いくら新製品が出てもプレースは極力抑えるというのが、わが社の方針です。 そういうやり方で一時的に成績が上がるかも知れませんが、それは大塚商会の商法ではありません。 この方針を貫き通ていることが、お客さんに信頼され評価されているわけです。 尤もこの六守四攻というのは会社としての経済方針であって、現場の支店長としては、四守六攻ぐらいがよいところでしょう。 平成元年、大塚会長はこの「六守四攻」を年頭のスローガンに引用している。<六守四攻して浮利を追わず>がそれである。 平成元年は大塚商会が顧客満足度(CS)の向上に全社的にシフトするという大きな方向転換を図った年である。具体的にいうとそれは、ひとつにはパソコンを中心としたサービス・サポート体制の抜本的強化であり、もうひとつは物流体制の大改革である。 大塚商会が電撃的なパソコンの頂上作戦を開始したのは昭和57年のことである。そして、3年後の昭和59年には早くもパソコンbP商社としての座を不動のものとする。その後もパソコン事業の快進撃は止まることを知らず、大塚商会の2桁高伸長の最大の原動力となっていた。その目覚しいばかりの躍進振りを数字で示すと、昭和57年のパソコン売上高を100とした場合、4年後の昭和61年には10倍強に、そして6年後の昭和63年にはなんとその売上高は15倍強にも達しているのだ。 が、その成長のスピードがあまりにも急速であったが故に、その反動として「六守四攻」のバランスは大きく崩れてしまう。つまり、サービス・サポート体制や物流体制の「守」が、販売の「攻」に明らかに遅れをとってしまったのである。 平成元年の前年、即ち昭和63年の年末座談会で大塚会長は当時の状況をこのように回顧している。 「どうもいままで六守四攻といっておきながら、ここ数年は四守六攻だったんじゃないかかな。社員に対しては会社の高収益の利益還元を相当にやってきたつもりだが、お客に対する利益還元というのはほとんどといっていい程しなかった。もう少しお客に利益還元をして、お客の顔を見た経営をもっとやるべきじゃないかと。これは今年の私としての反省ですね」。(「あゆみ270号〜昭和63年度座談会」より) 普通、売上が絶好調の時は銃後がなかなか見え難いものである。爆発的にモノが売れているのだから、当然販売部門への投資に優先的に資金を傾注しがちだ。四守六攻などはまだマシな方で、三守七攻、あるいはまた二守八攻なんてことにもなりかねない。そして、やがて販売が停滞してくるようになって、初めて銃後の守りの重要性に目を向けるようになる。 販売が絶好調の時にはこのように、得てして経営者というのはバランス感覚を失いがちである、「攻撃は最大の防御なり!」という風にどうしても気持ちが前傾しやすくなる。が、「六守四攻」をバロメーターの基準に置いている大塚会長には、この当時の攻守のバランスが明らかに大塚商会が本来目指すものではないことを早々に感じとっていたのである。このバランス感覚と切り替えの早さ。これこそが、大塚会長の持ち味でもある。 そして、こうした反省のもと、大塚会長は平成元年、<六守四攻して浮利を追わず>をスローガンに掲げ、サービス・サポート、物流といったユーザー接点での守りの体制の充実・強化へと一気に乗り出す。やる時には一気にやるという大胆な戦略を打って出るのである。 ●我社はここ数年20%を超す高成長を続けて来たが、年商千億突破を一つの節目と考え、成長の踊り場と位置づけて「サービスに優る商法なし」という創業の原点に帰って改めて我社の現状を再点検したい。 表面的な拡大成長を続けている間に、サービスの質の面で悪くなっていることがなかったかどうか。その結果、もし改めるべきものがあれば直ぐにも改め、又強化すべきものは早速強化してゆきたい。そういう考えから今年のスローガンは「六守四攻して浮利を追わず」にしました。攻めよりも守りを重視するということです。我々は徒らに売上や粗利を欲しがらないで、それ以上にユーザーからの評価と信頼を優先して考えたい。ユーザー満足度の追求というのは我社商法の原点であり、そのことは会社全員に周知徹底している筈です。それにも拘わらず最近いくつかのユーザー不満の事例を聞き残念支極に思うと同時に、社としても一半の責任があると反省させられています。 我々は今迄効率を追及するより余りに、サービスの質と量をを一部犠牲にしていたのではなかろうか。もしそうだとしたら、とんでもない誤ちであり本末転倒も甚だしい。そんなことで得られた高効率・高利益であるとしたら、それは一時の徒花であり単なる浮利に過ぎない。そういう目先の浮利を追って売上増を欲しがるようなことを止め、真のユーザー満足度を得ることを目指して総合的なサービスの質量の充実に最大の注力をするべきであります。そのためには今年は今迄とはまったく次元の違う画期的なサービス体制を作り上げたい。 それが究極の社業の繁栄をもたらすものであると確信しております。しかしながら画期的サービス体制を作るということは、目先的には利益を減らすことになりますが、私は敢えて甘受したいと思っています。むしろ進んで我々の利益の一部をユーザーに還元すべきではないかとさえ考えています。 企業は永遠であり明日の大塚商会の繁栄のために、今はユーザーの評価を一層高めることが大切なのであって一時の売上や目先の浮利を追ってはならないと考えております。 (「平成元年あゆみ新年号〜年頭所感より) この年大塚商会はなんと4割近くのシステムサービス部門のCE大増員を行い、そしてサービス拠点数を従来の13から一挙に30拠点へと拡充したのである。また、PCサポートビジネスの体系化を図るための「αサービスプロジェクト」を発足したのもこの年であった。 そして、なによりもこの年のスローガン<六守四攻して浮利を追わず>を端的に象徴したのが物流部門の大改革、即ち、「セブンイレブン商法」をヒントに取り入れた、“お客様が欲しいものを、欲しい時に、欲しいだけお届けする”体制を装備したパソコンの戦略物流基地、市川物流センターの開設であった。 |
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不況、倒産、リストラ、そして同時多発テロと、こう嫌なことばかり続くと気持ちがどうしてもネガティブになってしまう。だから、このような状況下の今日、会社が危機に瀕した時など、大抵の経営者は「あぁもうだめだ!」と頭を抱えて絶望的な気持ちになってしまいがちである。 しかし、企業経営なんてのはそういい事ばかりない。どんな会社でも一度や二度はこの難局を乗り切れるかどうかという重大なピンチに遭遇している。そして、そのピンチを乗り切ってこそ初めて会社は強靭な体質となって未来が見えてくるし、それがバネとなって一回りもふた回りも大きな成長を遂げる。それはまさに過去の成長会社の歴史が証明している通りである。 世の中好景気で、特別な努力をしなくても会社が成長している時というのは、経営者の資質はほとんど問われることはない。つまり、たまたま時流に乗ったということであり、あるいはまた見る目があったということであって、いわゆる「ラッキー!」な部分が多い。だから、本当の意味で経営者の資質が問われるのは、不況、倒産、リストラという社会環境が悪化し、会社がピンチに遭遇した時なのである。 今回は、そんな時の格言から<「―だからしめた」と考える>、<困難を味方にする>の2題を紹介しよう。
我々はよく自分の思うようにいかないことにぶつかったり、自分の不利な情勢に立たされたりすることがある。そういう時には、ともすると失望落胆して「もうだめだ」と思いがちだ。 だがそこが大事なのである。そこで諦めたのでは問題は決して好転はしないし、よい解決にはならない。どんなに失望しても、決して諦めてはいけないのである。 自分は楽天家であり、そしてそうとうな自信家でもある。それに戦争体験を含めたこれ迄の人生の中で、自分の強運というものを信じて疑わない。「天は自ら助くる者を助く」と言うが、自分が全力を投入して事に当たれば何事も解決できない筈はないと強く信じている。 そのために、私はどんな嫌な事に出会っても「もうだめだ」と嘆いたり諦めたりする代わりに「―だからしめた」と考えることにしている。 物は考えようであって、何事にも表裏の二面性があり、一面では嫌なことでも、見方を変えると良いと思われることは多いのである。 また「陰の極は陽の始めなり」ということもあるし、また、「窮すれば通ず」ということもある。 いずれにしても「諦め」は最低であり、最悪である。 いかに売上不振が続いても、低収益に苦しんでいても、同業者と較べたら良いとか、他社のやっていない先行投資をしていて生みの苦しみをしているのだからとか、「―だからしめた」と考える理由は必ずある筈である。 私は今迄に数多くの不動産を買ってきた。自他共に許す不動産に強い男と思っている。 だが、今迄の多くの取引の中で、もう一歩のところで間に合わずに買えなかったこともあったし、また愈々取引という当日になって、相手が値段を吊り上げてきたり、延期を申し込まれたことも度々であった。 無論そんな時には頭にくる。腹も立つが、しかし、そういう時にも、「これは天の配剤だ。止めた方が良いと考えるべきなんだ。」と自分に言い聞かせることにしてきた。そして事実、結果としてその後にずっと良い物件が割安に入手できたという例も数多く経験している。 このように人生には、良いと思った事が結果的に悪かったり、悪いと思った事が結果として良かった事が度々ある。決して一時の現象を見て失望したり諦めたりしてはいけないのである。 だからといって、いつまでも未練たらしく拘泥するのも得策ではない。難局を打開するには、諦めは大敵だが、同時に思い切りと発想の転換も必要である。要するに「―だからしめた」なのである。 凡そ意気消沈して消極的な気持ちになった時には、到底難局を打開することなどできるわけはない。その反対に「―だからしめた」と明るい希望を持って事に当たれば、どんなことでも解決できないことはないのである。 私も人の子。悪い事が重なって気が滅入ってどうしようもない時がある。煩悶して幾日も眠れない夜が続くこともある。そんな時、自分の過ぎ去った半生の苦難時代を想い、結果として今日あることの幸せを考えて、発想を転換し、色々理屈を見出して、最後には、「―だからしめた」と考えることにしている。そして現状を積極的に良しと肯定し、全力で挑戦してきた。 こうして私は今日迄、多くの困難を突破し味方にしてきた。これからもそうしていきたいと思っている。 (昭和59年10月、社内報「あゆみ」より) |
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やれ人手不足だ、金詰りだ、不況だと人は言うし自分も言う。またマスコミがそれに輪をかけて報道するから、ますますその気になってします。その上、それが当り前のようになってしまって、非難と言訳けを繰り返していることが多い。 確かにそれは難題であり、大変なことではあるが、そこが思案のしどころではあるまいか。いかに困難な条件であっても、自他共に平等にふりかかる困難なら、それは、真夏の炎熱、厳冬の酷寒と同様のものであって、考え方次第では、夏の冷房機器、冬の暖房機器のように、困難を逆に利用することだってできるはずである。 人手不足、物価高、金融難、売上鈍化等、その幾多の困難を他に先駆けて解決したものが勝者となるのです。 困難は耐え忍ぶだけではいけないのであって、進んで味方にするべきものであり、そしてまた、ひとたび味方にしたら、これ程、強力な味方はないことを銘記したいものです。私は数年来、不況待望論を唱えてきましたが、これも同じ考えから出たものであります。好況が五年も続けば、もうそろそろ不況到来は当然であり、金融引き締め開始後十ヶ月の万博後頃との予想はすでに常識であった。従って売上げ鈍化、回収遅延も当然予見されるべきものだったし、それに対する備えもなされるべきであり、またその時間的余裕も十分あったと考えます。 不況というのは季節でいえば冬にあたります。十分の備えを怠っていて、冬、即ち不況がきたからといって、慌てて薄着で飛び回っても、それは悪足掻きでしかなく、却って傷を深くするばかりなのです。 それに反して、十分の備えさえしていれば少しも苦にならないばかりか、逆に不況を味方にすることもできるのです。 一例をあげれば、不況時にも上手に頭を使えば、売上げなんか横バイでも利益を向上させることは簡単な話です。 困難を言訳けの種にしてはいけません。困難は敵ではなく味方なのだと考えるべきです。困難を人より先に解決すれば、それが最有力の武器になるとの意なのです。 私は困難を味方にしないまでも、敵にはしたくないものと大いに創意工夫を凝らしております。 (昭和四十六年三月、幹部研修会での講話より) |
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成長する会社と、そうでない駄目な会社とは、一体どこがどう違うのだろうか。一番分かりやすい表現で言うならばそれは、成長する会社というのは<優秀な社員が辞めない会社>であり、駄目な会社というのは<優秀な社員が辞める会社>ということがいえるのではないだろうか。 つまり、成長する会社というのは、優秀な社員が辞めないから結果的に優秀な社員ばかりが残って、無能な社員が居座れなくなって辞めていく。だから、成長する。その逆に、駄目な会社というのは、優秀な社員が入ってもすぐに辞めていくから、無能な社員ばかりが残る。で、益々駄目な会社になっていくと、こういうことである。 創業時の条件というのはどこも一緒である。ゼロからスタートする会社にハナから優秀な社員ばかりが集まってくるわけがない。むしろその逆で、世間でいうところの落ちこぼれの部類の人間が集まるケースが多く、もとより優秀な人材など望むべくもない。10人に一人、きらりと光る人材を拾えれば儲けものである。 しかし、このように全く同じような条件下と環境下でスタートしたはずなのに、一方はいつしか優秀な社員ばかりの集団となってやがて大きな成長を遂げていくのに、もう一方の会社はといえば、数少ない優秀な社員が定着せず、また優秀な社員が入ってきたかと思えばすぐに辞めていく。その繰り返しだから当然会社そのものは大きくなれない。こうして、両者の間では年々大きな格差が生じていくことになり、10年も経つとその格差は埋めるべくもない程に決定的なものになってしまう。 では、どうしてこのような差が生まれるのであろうか。 そのメカニズムとは終極の所、成長する会社というのは優秀な社員にとっては実に居心地の良い会社だが、無能な社員にとっては居心地の良くない会社ということであり、駄目な会社というのはその逆に、優秀な社員にとっては居心地が悪く、無能な社員にとっては居心地の良い会社ということになる。 最初から優秀な人材が集まる会社などは稀で、このメカニズムによって、やがて優秀な社員が集まる会社と無能な社員が集まる会社とに振るい分けられていくのだ。 そのメカニズムを構成する要因だが、これはやはり1にも2にも経営者の資質によるところ大きい。具体的には社員に対する待遇、即ち賃金や福利厚生であり、そして社員にやる気を起こさせる評価制度、利益還元、人事査定、それに教育、経営ビジョンなどが挙げられよう。集約するとそれは、人の使い方や育て方が上手な経営者ということになる。 入社した時は普通の社員でも、TOPの使い方、育て方が上手だからやがて優秀な社員へと育っていく。しかも、周りに成績優秀な社員が多くいるからモチベーションも上がる。当然、目標のバーも高くなり、ハイレベルでの切磋琢磨が行われる。このような環境下では、これについてこれない駄目な社員は挫折・脱落し、やがて一人二人と会社を去っていく運命にある。これがつまり、成長する会社のメカニズムなのである。 一代でひとつの時代を築き上げた経営者に共通しているのは、人の使い方や育て方が実に上手だということである。業界にあってはその代表格といえるのが大塚商会の創業者である大塚実会長だ。その人の使い方や育て方には定評があり、とりわけ個人の長所を生かした育成術はまさに天才芸といえるものがある。今回は、そんな大塚会長の“人の使い方・育て方哲学”から2題を紹介しよう。 |
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人間には誰しも長所と短所があります。これは私としても例外ではありません。 そして人の短所を直すのは至難の業です。 人を使うコツとは先ず、その人の長所を六割とか七割に評価し、短所を三割か四割に見ることではないでしょうか。 よく最初から人の短所ばかり目をつける経営者がいますが、その人は批評家ではあっても、社長ではないと思う。 その人とパートナーの組合せを変えるとか、職場を替えて見るとか、その人の長所が出て短所が出れないように経営者が環境創りをする。そしてその人の長所を使って伸び伸びと仕事をしてもらう。それが今日の大塚商会の成功の原動力だったと思いますね. 「桂馬の高飛び歩の餌食」と言いますが「桂三あって詰まぬもの無し」とも言います。桂馬は異能な力を持っているが、又脆いところがある。そこで桂馬の隣りには必ず銀を置くということが常識になっている。 その人の何が有能か、何が得手なのか。つまり長所を見つけ、それを生かすことが第一。 そうすればその人はハッスルする筈です。 人間は自惚れなくしては生きては行けません。私や専務以下全部の人間にもそれは当てはまることだと思います.
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大塚商法をもっとも象徴する名言といえば、やはり<サービスに優る商法なし>に尽きるが、その<サービスに優る商法なし>の名言は<新聞作戦>なくして語れない。 大塚商会は創業4年目の昭和40年、歴史的な<新聞作戦>を開始する。 新聞配達からヒントを得て名づけたこの<新聞作戦>は、“面の効率”を徹底的に追求した作戦である。 当時のジアゾ感光紙ビジネスは、官公庁などの大手を中心とする大口ユーザーをめぐっての顧客争奪戦が主流となっていた。小口客を相手にしていたのでは配達コストが高くつき採算が取れないとの考えからだが、この当時のジアゾ感光紙ビジネスの体系を抜本的に変えたのが、<新聞作戦>であった。 小口客を1件、1件相手にしていたのでは確かに採算は取れない。しかし、顧客を<点>で捕えるのではなく<面>で捕え、隣りから隣りへと開拓し顧客件数を増やしていけば、例え小口客相手でも配達効率が上がるので十分採算は取れる。しかも、大口客のように値引きの要請を受けることもないので、適正な利益を確保できるというメリットもある。 こうした、面の効率を徹底的に追求した<新聞作戦>は、多店舗完全テリトリー制という拠点政策と連動し、その後の電子リコピー(EF)時代における同社躍進の原動力ともなった。やがてPPC時代となり、昭和50年にリコーから待望の普及機「DT1200」が発売されるや、<高密度設置作戦>として名を変えその思想は引き継がれることになる。 一定の地域内に多くの顧客を抱えることで、必然サービス効率も上がる。<サービスに優る商法なし>の格言は、こうした<新聞作戦>の実践と成果の過程の中で生まれていったのである。 <新聞作戦>というと今日、いかにも古めかしいネーミングイメージがある。が、それは<エリア戦略>と名を置き換え、今日業界に脈々と受け継がれている。それはまさに複写機ビジネスの原点といっても過言ではない。 |
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私が大塚商会を創業して間のないころ、たしか昭和四十年頃だったと思いますが、ある時、こんな疑問が脳裏を過りました。 当時、大きな会社や銀行はこぞって事務合理化のために大量のコピーを使っておられたが、私は売った商品の代金はすぐ頂きたかったので中小企業専門に回っておりました。 当時のコピーは、現在のPPCと違って青焼きと称されていたジアゾ複写機が主流で、その感光紙は一冊たしか五百円ぐらいだったと思いますが、同業者の方はこれを一冊ずつ配っていたんでは、採算が取れないと言っておられました。 冒頭に言った疑問はこの時感じたのです。 当時、新聞代は感光紙一冊の値段にほぼ匹敵していました。新聞は朝に夕に一ヶ月も配達してなお利潤を上げている。なのにほぼ同価格の感光紙を一冊売って、なぜ採算が合わないのか?おかしいではないか。そこでハタと気が付いた。新聞は隣から隣へ配達している。つまり効率が良い。この効率の良さは配達コストの低下に恐ろしい程の威力を発揮しているんだ、ということです。 大きな会社をポツンと点で狙うより、たとえ感光紙一冊のお客さんでも数多く、つまり面で商売すれば良いのではないか。この隣りという効率の良さの威力を徹底的に商売に生かそう。この作戦を私は社内で「新聞作戦」と名づけ、全社員に徹底させました。これでいこう、と。 そしてこれは大成功を納めました。爾来、面の効率の追及は今日に至るまで、大塚商法の重要な基本戦略の一つになっています。 (昭和61年刊〜「困難を味方にする」より) |
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